「雨を連れてきているわ」
庭先の薔薇に水をやりながら、空を見つめてサランは言った。
「誰が連れてくるの」
部屋の窓から庭先をぼんやり見つめていたモンは、不思議そうに尋ねて同じように空を仰ぎみた。空は青く、所々に薄い雲が塵紙をちぎって投げたみたいに散らばっているばかりだった。
「空は青いし、雨雲なんて見えないよ。雨なんてきっと降らないよ。それに、雨は誰かが連れてくるものじゃないよね」
そんなことも知らないんだ! と言わんばかりの自慢げな顔で、窓の縁に両肘をついて両手で顔を支えながら、庭先にいるサランに聞こえるように言った。
なおも空を見つめたまま、サランは静かに、まるで独り言のように呟いた。
「雨は風が連れてくるのよ。今通り過ぎていった風が言ったの。『急がなきゃ! 夜の間に雨をこの地に迎えなくては――』ってね」
サランはそう言い終わるとふと目線を落とし、薔薇の花へと水をかけていたホースを反対側に振り、今度はバジルとレモンバームの茂みへたっぷりと水をかけ始めた。
「ぼくは風が話すなんて、なんだか信じられないなぁ。だって口もないし……。そもそもぼくはその姿を見たことがないよ。もちろん風の話し声なんて聞こえた試しもないよ」
そう言って不服そうに口をとんがらせて、そのままヒューっと小気味のいい口笛を吹いた。
「あら、モン。口笛がとっても上手ね。風の姿はね、見るものじゃなくて感じるものなの。ほら、私の髪がこんなふうに揺れているでしょう? 私のそばに今風がいるということよ。ほら、そこのルッコラの葉が揺れているでしょう? そこにもね」
サランはそっと目を閉じると、しばらくそのまま動きを止め、そして体中で風を感じながら、ゆっくりと心地よさそうに微笑んだ。
モンも同じように目を閉じて、しばらくそのままでいた。少ししてパッと目を開けると、キラキラと瞳を輝かせてながら言った。
「ぼく! ぼくの頬にさらさらさら〜って、ものすごく柔らかい繊細な何かが触れていったみたい! いつもの風だけど、いつも感じる風じゃないみたいに! それに、まるで触れられた瞬間チュッっと軽くて優しいキスをされたみたいだよ。」
興奮気味にそう言うと、なんだか急に恥ずかしくなったのか、頬っぺたがふわっと赤らんだと思うと、何かを振り払うように頭をブンブンと振った。
「“ただ吹いてくる空気”だと思えばそうとしか感じられないけど、風は生きていてお話もする“何者”なのかもしれない……。そう思って接してみると、また違った感じがするでしょう? でもね、それは勝手な思い込みなんかじゃないの。[こういうものでしかない]と狭まっていた世界の扉を開いて、より広い世界を覗くことができるようになったということなのよ」
「ぼくの世界は広がったの? そうしたらぼくは、サランのように風の声が聞こえるようになったのかな……」
「どうかしら……ふふ。もし風の声が聞こえたら、なんて言っていたのかぜひ教えてね」
「もちろんだよ! サラン、ぼく風の声をたくさん聴くために裏の高台まで行ってくるよ!」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、窓から直接飛び出すと、サランの横を風のように素早く通り過ぎ、あっという間に見えなくなりそうな位置まで走り去って行った。
「モン! 『窓から直接出ないこと』っていつも言っているでしょう!! もう……、日が暮れる前には帰ってくるのよ」
少し呆れながらも優しく見守るように声をかけたサランの方を、チラリと振り返ったモンは嬉しそうに、二度ピョンピョンとその場で跳ねて両手をぶんぶんと振ると大声で答えた。
「分かったよ! サラン~、今晩は“カネロニ”が食べたいな! いってきまーす」
「まったく。風のような子ね……」
颯爽と走り去るモンをやれやれといった様子で見送りながら、サランは優しく微笑んだ。
「あら? チーズはまだ残っていたかしら」
ハッと気づいたように慌てたサランは、急いで部屋の中へと入って行った。
――空には、遠く北の方からゆっくりと灰色の重たく水気を帯びた雲が近づいてきていた。
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